故事成語

唯我独尊(ゆいがどくそん)

itibann

さきほど帰宅して、NHKにチャンネルを合わせたら
東京の歴史番組が放送されていました。

僕が見たのは、ちょうど第二次世界大戦末期の様子。
東京大空襲から玉音放送にかけての部分です。

モノクロフィルムで撮影されていた当時の様子を
カラーに編集して放送していたのですが
言葉にすることも躊躇われるほど壮絶で悲惨な光景でした。

でもすべて事実ですからね。
今だから狂気の沙汰とかよとか言っちゃいますけど
あの時代に生きた人たちにとっては、人生のすべてですから。

もちろん戦争は絶対悪なんです。
繰り返しちゃいけないのです。
しかし人生のすべてがそこにあった人たちの生きざまを
簡単に否定することもどうなんだって思うのです。

否定することも、美談に変えることも許されない事実。
学ばなくてはいけないこと、考えなくてはいけないこと
たくさんありますね、はい。

この国には、神道があって仏教があって儒教があってキリスト教がある。
イスラム教も含めて、数えきれないほどの新興宗教もある。
人口比率で比べると、これだけ神様がいる国は本当に珍しい。

古代にさかのぼれば、八百万の神様がいたくらいだから
崇め奉る対象は、どこにでも転がっているのかもしれません。

ところが幸運なことに、多少やいのやいのとあったとしても
お互いがお互いの存在に対して寛容であるというか
干渉しないところが、また不思議なんですね。

みんな共有しあっちゃう。
クリスマスの一週間後には神社に行くし
教会で式を挙げても、お葬式はお寺に頼むし。

かなりざっくりとした一般論にすぎませんが
これだけの多神教が存在しているのであれば
信仰の違いを理由に内乱は起きないですよね。

そしてこれもまたざっくりとしたまとめ方になりますが
信仰とは、どの物語を信じるのか、その違いだけのように思います。

物語とは、何も仰々しいものとは限らず
例えば、ワタシとあなた、ワタシと家族、ワタシと会社
なんてところにもたくさん転がっています。

だから、恋愛という信仰心、家族という信仰心、会社という信仰心があって
なおかつお互いの行き来は自由ですから
その時に自分が置かれた立場や状況によって、コロコロと変化します。

物語を信じている間はいい。
問題は、信じるに足る物語を見つけらなくなった時です。

「誰でもいいから、人を殺したかった」なんて事件は
まさにその典型と言うことができます。

人は独りじゃ生きられない。
そのためには、受け皿となる物語が必要だと思うのです。

先ほど、内乱が起きないと言いましたが
実は目に見えないところで、小さな戦はたくさんあります。

数日前の新聞の記事にもありましたが
いじめやDV、セクハラにパワハラ、引きこもりと虐待云々の
問い合わせ件数が格段に増えているのだそうです。

もちろん相談してくる方は氷山の一角に過ぎず
誰にも打ち明けられずに、抱え込んでいる人たちは大勢いるでしょう。

先進国と呼ばれながら、年間の自殺者が3万人を超える国は異常です。
この数字だって、どこまで信憑性があるのか分かったものじゃありません。
未遂で終わったり、助かったりした人もいるわけですから。

即効性のある特効薬は、残念ながらまだ見つかっていません。
簡単に答えが欲しいのであれば、唯我独尊を謳う物語にすがればいいのです。
でも僕には、それが正しい判断だとは言い切れないのです。

このご時世、世間の空気がピリピリとしていて
痛みをともなって肌に突き刺さります。

だからね、もっと人と人が寄り添うべきなんじゃないかと思うのです。

大きな物語はいらない。
その代わりに、小さな物語をたくさん持つことの方が
ずっとずっと大切なんじゃないかと思うのです。

このブログにも何度か登場していますが
小さいけれど、確かな幸せのことを「小確幸」と呼びます。

三振かホームランか、のような生き方も時には必要でしょう。
ただ、自分を見失うようなことがあった時は
身近なところから「小確幸」を探してみませんか。


Leave a Reply

Your email address will not be published.