雑記

「オワラナイウタ」についての考察

時々、青春ってなんだろうなあと思うことがあります。
思春期特有の、甘酸っぱくてほろ苦い体験を指す言葉
と決めてかかるのは、いささか乱暴過ぎやしないかと思ったのです。

だって、甘酸っぱくてほろ苦い体験というものは
年齢に関係なく、いくつになっても体験するし
そういう体験の一つ一つの積み重ねが
人生の経験値のような気がするのです。

甘酸っぱくてほろ苦い体験というものは、何も恋愛に限ったことじゃありません。
モラトリアムの時期が終わって、世間の荒波に放り出されて
気がつけば社会人になって、いつしか空気を読むことを強いられるようになる。

どんな状況の中でも、甘酸っぱくてほろ苦い体験はやってくるのです。

それはつまり「生きる」ことに呼応しているのだと思います。

たった独りで今の世の中を生きていくことは、非常に困難です。
もし、世界中で誰一人として自分の存在に気がついてくれる人がいなかったら…
すべての人からワタクシという存在の記憶が消去されてしまったら…

考えるだけでもぞっとします。

だから、人は自分を理解してくれる他者を求めて、寄り添うことを願う。
としめくくっては、これもやはり短絡的やしないかと危惧するところがあります。

独りで立つことと、誰かと寄り添うことは、一見矛盾しているようで
それでも「生きる」ということの本質で言えば、同じ地平に存在しているものです。

問題はバランスです。
天秤の針が、どちらか一方に片寄りすぎては、ちょっと困る。
そこでどうにしてバランスを取ろうと、水面下で足をバタつかせる。

このバタつきが、甘酸っぱくてほろ苦い体験とイコールと考えれば
人生のそのほとんどの時間を費やしていることになるのだから
やはり年齢は関係ないんじゃないかと思うのです。

ただ、いつもバタついていたのでは、やがて疲れ果ててしまいます。
そんな時に、映画や小説や芝居やスポーツ、音楽など何でもいいのですが
登場してくる人物や選手たちの後ろ姿に
もしかしたら自分がなり得たかもしれない、もう一人の自分を重ね合わせます。

他者を通じて、人生の追体験をするわけです。
それを人は感動と呼び、胸の内に熱い衝動が込み上げてくるのです。

だから、感動は「する」ものであって「させる」ものではありません。
感動しますとか、感動させますというキャッチコピーは疑った方がいい。

生きるということは、選択の連続であり、常に分岐点が待ち構えています。
選択することに疲れて、安易な物語にすがってしまうことは
一見楽な方法のような気もしますが、他者が用意してくれた物語ほど
実は危険で厄介なものはないのだということを、歴史が証明しています。

しんどくても、苦しくても、疲れ果てても
そこから逃げることはできないし、決して逃げ出して欲しくないなと切に願います。

もしかすると、甘酸っぱくてほろ苦い体験は
色々な知識や経験を背負った分だけ、10代よりも20代、30代…の方が
ややこしくて複雑で難解かもしれないです。

きちんと歳相応にできている。
うん、困った。
困ったけれど、堂々と立ち向かおう。

という視点から、次回作を立ち上げようと企んでいます。


Leave a Reply

Your email address will not be published.