故事成語

天網恢恢疎にして失わず(てんもうかいかいそにしてうしなわず)

taiyou

人は生まれながらにして平等ではない
ということを、悲しいけれど僕たちは知っています。

生まれた国、地域、目の色、肌の色、信仰など
様々な要因が重なって、あらゆる区別が起こります。

区別に悪意が混ざると差別になります。
そして悪意は往々にして気がつかないことの方が多いのです。
だから、差別している本人に悪気がないから始末に負えない。

宗教戦争が最たる例ですね。
有史以来、今もなお世界各地で紛争が止みません。

信じる神様が違うだけで、人と人が血を流す。
そんな教えはどの神様も唱えていないのですけどね。

とは言いつつ、排他的な新興宗教もありますが。

日本で宗教の話をすると敬遠される傾向があります。
でも僕は、宗教とあと政治の話はもっとオープンになっていいと思います。

なぜなら、信仰の自由は保障されているわけだし
この国の進む道を決めるのは、国会議員ではなく国民だからです。

この二つを同列に並べて話を進めると、少々ややこしくなるので
本日は、お題に近い宗教についてちょっとだけ。

先月、各テレビ局でオウム真理教の特番が組まれていました。
それもこれも、彼らが起こした一連の事件の裁判が行われたからです。

結論から言うと、彼らの犯した罪の原因を理解しようとしても
恐らくは不可能に近いと思います。

麻原彰晃という人物が作り上げた物語を理解できない人々にとって
彼らの主義主張を受け入れることは、最初から無理な話なのです。

だから同情する余地がない。
正確にはしようとしてもできない。
もちろん、同情する必要があるかどうかという問題は残りますが。

先に述べた通り、信仰の自由は保障されています。
けれど、まったく関係のない人々を傷つけてもいいという保証はありません。

どんなに素晴らしい教えだとしても
他人を攻撃していい理由にはならないのです。

彼らの犯した罪は罪として、きっちり裁きを受ける必要があります。

ただ、裁く根拠というか基準はどこにあるのかなと
疑問に思うことがなくはないのです。

この国が法治国家で、その法に則って裁くというなら
罪は裁いても、信仰まで裁いていいのかなと。

危険思想を放っておくことができないことは理解できます。
でも、姿かたちを変えたといえ、未だに信者がいることも事実。

その信者を、区別はしても差別していい理由はありません。

この釈然としない気持ちの整理がつかないと
僕の中でのオウム真理教の問題は、片付かない気がします。

被害に遭われた方々、またはその関係者の方々には返す言葉もありません。
怒りの拳を突き上げていい、それだけの理由がありますから。

ただ、第三者の立場で、彼らの主義主張を危険だからという一点で
片づけてしまうのは、少々乱暴じゃないかと思うのです。

うーん、だからといって入信するわけにはいかないしなあ。
実の娘の前で自慰行為をしてしまうような人が教団のトップですからね。

彼らの主義主張や思想を、咀嚼して落とし込むにはまだまだ時間がかかりそうです。
もしかしたら死ぬまで分からないかもしれません。

ですが、いつか、僕はこの壮大な物語を題材にしたドラマを描きたいと思っています。
寄り添うのか、突き放すのか、笑い飛ばすのか
どのポジションから描くことが最善の方法なのか
考えるだけで途方に暮れてしまいますが。


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