故事成語

恨み骨髄に入る(うらみこつずいにいる)

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嫉妬という感情は醜いなあと思います。

誰かを羨んだり妬んだり
自分の能力のなさを嘆いて他人のせいにする。

そんな自分を嫌悪する自分がいて
歳を重ねても抗いがたい俗物心から逃れることができません。

もちろん僕は聖人君主でもなんでもないので
ネガティブな感情がわき上がることは、当たり前のことかもしれませんが
できれば、そういうモノから遠ざかって、穏やかに生活したい。

論理的思考よりも、感情論が先走る傾向があるので
しっかりとした理性と知性でコントロールしたい。

そう願う一方で、未だに衝動的な直感を信じている自分もいて
むしろ感情の赴くままに流されても、悪くないなと思うこともあります。

自分で自分を信じなかったら、誰が信じてくれようか。
必要以上に傲り高ぶったりせず、それでいて下手に媚びたり蔑んだりもしない。

要は、自分の中の天使と悪魔のパワーバランスの問題です。
天秤がどちらに偏ることなく、常に均衡を保っている。

でも、あれですね。
天秤が止まっていたら、人生味気ないような気もします。
右へ左へ大きく傾いていても
同じ揺れ幅なら、それは均衡を保っているともいえる。

…なんだか思春期の青年みたいな悩みですね。
成長しろ、オレ。

さてさて、前置きが長くて本文が短いといういつものパターンですが
人間数ある感情の中で、僕が唯一経験していないものがあるとすれば
それが、このお題にある「恨み」という感情だと思います。

こんなことを書くと、なんてオメデタイ人間なんだと突っ込まれそうですが
「やり場のない怒り」や「決して赦すことのできない記憶」はあっても
だからと言って、特定の何かを「恨む」ということは
今、半生を振り返ってみても、やはり思い当たるところがありません。

愛する家族や友人を、理不尽な形で失ったとすれば
それが人間の手によるものだとすれば
間違いなく、僕はその相手を憎むだろし、恨むでしょう。
きっと復讐を誓うでしょう。

たとえば、地下鉄サリン事件や、拉致事件は間違いなく人災ですから
僕が被害者と親密な関係にあるのだとすれば、きっと許すことはできない。

これが東日本大震災のような天災だとすると
怒りや悲しみに覆われて、その後の人生がボロボロになったとしても
ぶつける相手がいないので
逃げ場を失ったまま自分の中で右往左往するしかない。

原発に関して言えば、僕は人災だと思っているので
政府に対して、なんらかのアクションを起こすかもしれません。

オメデタついでによくよく考えてみると
「怒り」や「憎しみ」に時効はあっても、「恨み」には時効は成立しないのでは。

言い換えれば、時効がないからいつまでも「恨んでいる」わけで
それは、サリンだろうと原爆だろうと
暴力的なまでに命を奪われた人たちのことを想えば
こんなオメデタイ人間にも、イメージすることはできます。

「恨みからは何も生まれない」

もっともなご意見ですが、生まれないのが「恨み」なのだから
他人がどうこう言う資格はないんじゃないかとさえ思うのです。

キレイな言葉はいくらだって並べることができます。
負の感情は、時間が癒してくれるし、解決策はいくらでもある。

けれど「恨み」は、相手が人であれ神であれ仏であれ
決して埋まることのない溝がそこにはできてしまう。

もし、「恨み」に唯一対抗できるものがあるだとすれば
それは「祈り」に似ているのかもしれません。

問題は、何に向かって「祈る」のか、ということですけど。

長くなりそうなので、今日はここまで。
です。

異論、反論、ご意見あれば、お待ちしております。


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